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時間とは?/ プロミス

[ 41] 時間 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93

砂時計では砂の流れを利用して経過時間を計ることができる。また砂時計は、現在というものが過去と未来の間にあることを象徴している
時間(じかん)とは物事の変化を認識するための概念である。芸術、哲学、自然科学、心理学などの重要なテーマとなっている。それぞれの分野で異なった理解のしかたがある。
本項目で説明する時間という言葉は、現代の日常においては、互いに似てはいるし強い関連もあるが厳密には異なるいくつかの意味で使われている。
時(とき)そのもの。つまり、過去・現在・未来と流れてゆくものであり、哲学的表現では、空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり[1][2][3]、いっさいの出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの[4]。
3の意味の時間すなわち時(とき)そのものは、日常および哲学においては流れとしてとらえられることが多い。例えば時(とき)とは、過去から未来に絶えず移り流れる[3]ものであり、過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆくと考えられ[1]、過去・現在・未来と連続して永久に流れてゆくもの[5]であり、過去から未来へと限りなく流れすぎて[4]ゆくものである、とされる。流れに速さと向きがあるように、時間にも速さと向きを想定することができ、それぞれ節に分けて解説する。また3の意味の時間をひとつの直線(時間軸)のように固定されたものと捉えれば、我々の方が時間軸に沿って過去から未来へ移動するという捉え方もできる。ニュートン力学や相対性理論における時間軸と空間軸を使った座標系での質点の運動という捉え方や、ファインマンダイアグラムにおける時間軸に沿った素粒子の運動などはその例である。
歴史的に見ると、これらの時間単位は、天体が見せる周期的な現象(現在の視点で見れば天体の運動)をもとにして決められてきた。例えば、日没の周期や日の出の周期(太陽の見かけの動き、現在で言うところの地球の自転)を元に1日という単位が決められ、太陽の見かけの高度が変化する周期(現在の公転)で1年が決められ、月の満ち欠け(現在で言うところの、月の公転)で(太陰暦での)1ヶ月が決められた。現在でも、おおむねその枠組みは暦として生き続けている。
後に振り子の周期が一定であることが発見され、それを用いた時計が開発され、天体に依存しない時間の測定が発達することになった。 また、その時計も、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、技術革新の毎に、以前の時間の計り方は不正確だった、と見なされるようなことが長年に渡り続いた。そしてついには、原子の発する電磁波の周波数によって時間を決定する事となった。これが原子時計である。
時間については多くの哲学者が様々な考え方を提出して来た。そこで扱われる問題には、次のようなものが含まれる。
時間をめぐる考察が厄介である事を示すためにしばしば引用されるアウグスティヌスの有名な言葉に、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない[8]」というものがある。
アウグスティヌスは時間を内面化して考えた。時間は心と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間3つに分けて考えるのが世の常だが、過去はすでにないものであり、未来とはいまだないものである。ならば在ると言えるのは現在だけなのだろうか。過去や未来が在るとすれば、それは過去についての現在と未来についての現在が在るのである。過去についての現在とは記憶であり、未来についての現在とは期待、そして現在についての現在は直観だとアウグスティヌスは述べる。 時間はこのような心の働きである。神は世界創造以前には何をしていたのかと問う人がいるが、アウグスティヌスによればこの問いは無意味である。なぜなら、時間そのものが神によって造られたものだから、創造以前には時間はなかったのである。神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にある。
カントは時間、空間の直観形式でもって、人間は様々な現象を認識すると考えた。カントにおいて経験的な認識は、現象からの刺激をまず外官によって空間的に、内官によって時間的に受け取り、それに純粋悟性概念を適用することによって成立する。空間は外官(外的なものからの刺激を受け取る感覚器官)によって直観され、時間は内官(内的なものの感じをうけとる感覚器官)によって直観される。この場合時間は空間のメタファーとして捉える見方もあるが、それは『純粋理性批判』解釈の大変難しい課題である。時間、空間の一体どちらが根源的な認識様式であるかという問いに関しては、どちらかといえば時間であるという見解も純粋理性批判には見い出される。西洋の伝統では、事象は空間的、視覚的に捉えられる事が多いのである。そもそもロゴスという言葉は、ごちゃごちゃした塊を見やすいように整理分離するという意味であったのである。
仏教の時間理解は基本的に現在指向である。それは前世も来世も説かなかったブッダの現世指向に起因するものらしい。 物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない(諸行無常)というのが仏教の根本的な認識である。アビダルマではこれを「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開した。 龍樹に代表される空思想においても時間は、現在意識を軸に考察されている(後に、大森荘厳はこの時間理解を元に独自の思索を展開していくことになった。それについては後述)。
アイザック・ニュートンは自然哲学にユークリッド幾何学(および他の数学)を大幅に導入してニュートン力学を創始し、そこにおいて時間は過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもので、空間と共に、現象が起きる固定された舞台を成すものであると想定した体系を構築し、この固定された舞台を絶対空間および絶対時間とも呼んだ。この体系では、空間は均一で平坦なユークリッド空間であることが暗黙に仮定されている[9]。(現代では、時空を合わせて4次元の直交デカルト座標で表すことができる、とも理解される)
特殊相対性理論によれば光の速度はどの慣性系に対しても一定である。これを光速度不変の原理と呼ぶ。光速度不変の原理から異なる慣性系の間の時空座標の変換式が求められ、それはローレンツ変換となる。このとき、ある慣性系から見て空間上の異なる地点で同時に起きた事象は、異なる慣性系から見ると同時に起きてはいない。これを同時性の崩れという。結果として、観測者に対して相対運動する時計は進み方が遅れて見える。
一般相対性理論によれば重力と加速度は等価であり(等価原理)、これらは空間と共に時間をも歪める。一般に重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる。例えば惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い。非常に重力の強いブラックホールや中性子星ではこの効果が顕著である。
【この節の記載は「時空」の節と重なる部分もあるが、この節ではアインシュタイン個人の時間解釈が述べられる。ただし、アインシュタインが以下のようなまとまった時間解釈を発表したか否かは、出典明示を要する。】
アインシュタインによれば時間と空間は同じもので時空(時空連続体)と解釈する。ニュートンの時間方程式もアインシュタイン方程式も時間対称性を持ち、ニュートンもアインシュタインも自分の方程式に時間対称性(時間は等方向つまり過去、現在、未来にも流れる事が方程式上可能)が存在するのを見つけており悩んだが、アインシュタインはあえてこの方程式上に存在する時間対称性が数学的に存在を許すのを肯定し、過去、現在、未来が同時に存在しているという解釈をした。これを時空連続体という。時空連続体には過去、現在、未来がすでに同時に存在している、という解釈である。
この概念を発展させた近年の研究[要出典]で、なぜ光速が秒速約30万キロなのかという事も説明する。即ち、すでに出来上がっている過去、現在、未来(時空連続体)の中を私達が光速度 秒速約30万キロで走っている、とされる。私達が光の速度を秒速約30万キロと観測するのもこの為である、とされる。もし、私たちが時空連続体内を秒速10万キロで走っていると、光速度は秒速10万キロとなる、とされる。アインシュタインは記者から「その様な事が本当にあるのか?」と聞かれ、「信じては貰えないと思うが、過去、現在、未来がすでに同時に私の数学方程式上には存在しているのです」と答えている。
ニュートン力学でも相対性理論でも、1個の質点の運動は、3つの空間座標と1つの時間座標で表される4次元空間の中の1本の連続曲線(軌跡)として表現できる。また特定の時刻に特定の場所で何かが起きるといった事象(イベント)は、この4次元空間の中の1個の点として表現できる。しかしニュートン力学では、3つの空間座標が互いに入れ替えることができるのとは異なり、時間座標は空間座標とは全く独立であり両者は完全に別のパラメータとして扱われる。一方、相対性理論ではローレンツ変換により時間座標と空間座標とが混合するので、両者を完全に独立のパラメータとして扱うことはできない。すなわちヘルマン・ミンコフスキーにより示された通り、ローレンツ変換はこの4次元空間の座標軸の回転とみなせる。この事情から、この4次元空間を時間と空間が強く一体化した「時空」だとする考えが生まれ、さらにこの考えが、重力は4次元時空の曲がりに相当するという一般相対性理論の発想につながった[10]。この4次元空間は、ヘルマン・ミンコフスキーにより数学的に定式化されたのでミンコフスキー空間またはミンコフスキー時空とも呼ばれる。
よほど光速に近い速度で移動するもので無い限り、基本的にニュートン力学の枠組みで十分な精度で計算できるので、相対性理論が登場した後でも、大半の自然科学者は普段は基本的にニュートン力学の枠組みのままで時間概念を取り扱っている。(ただし、素粒子論などを扱っている科学者は別である)
特筆すべきことのひとつに、物理学分野での「プランク時間」の概念の登場がある。さる理論同士の矛盾があったが、もし光に最小単位があるという仮説を導入すれば解決することをマックス・プランクが見出し、それによって光量子の概念が認められ、それと連動してプランク単位系が生まれ、また「時間の最小単位」という概念も登場した。これがプランク時間である[12]。
ニュートン力学の登場以降も、その理論の成功や、それが人々の時間概念に与えた影響を意識しつつ、哲学的な考察は続けられていた。
時間と意識の関係はどのようなものであるか(人間の意識の時間はニュートン力学の時間そのものではないことを指摘する考察)
また、相対性理論によって時間概念が大きく変化したことや、宇宙論の諸仮説の中でビッグバン仮説が最有力視されるようになってくるなかで、古典的哲学のテーマとは異なるそれが最前面に出てくることにもなった。よく知られているテーマとしては以下のようなものがある。
ベルグソンは時間についての理解が空間化された(空間になぞらえて考えられた)時間についての理解、認識である事を批判し、人間が経験しているのはそのような時間ではないと説いた。時計は空間化された時間の分かりやすい例である。ベルグソンは時間を「純粋持続」であるとした。
ベルグソンは時間を連続体として捉えたが、バシュラールは逆にそれは瞬間の連続として考えた。我々が感じる時間現象は常に現在、言い換えれば瞬間でしかないからである。記憶にある瞬間瞬間と現在瞬間が比較される時、時間概念が誕生するわけである。また、そこから瞬間瞬間をより高く深く生きる事が、よりよく時間を過ごす事となるバシュラールの思想が開花する事になる。
大森荘蔵は、人が過去を思い出すとき「過去の写し」を再現しているのだと考えがちなことに注目する。大森はそのような「写しとしての過去」は錯覚であるという。 そのような過去のモデルでは、まず写される対象としての正しい過去が存在し、それを写した劣化コピーとしての過去が記憶の中に存在するということになる。しかし大森の考えによると、過去は「想起という様式」で振り返られる中にのみ存在する。思い出されるのは写しとしての過去ではなく、過去そのものである。 過去の記憶が正しかったかどうか考えるとき、想起という様式から離れて記憶の正誤を判定する過去は存在しない。想起同士の比較ができるのみである。 世界五分前仮説などは過去が想起の外に存在するという前提のもとに生まれた、意味のない問題であるという。
現在の我々は、時間は常に一定の速さで過ぎるものでそれに合わせて様々な現象の進行速度や周期の長さが計れる、などとつい考えてしまう傾向がある。だが観測的には我々は、ある周期現象(例えば天体の周期運動、振り子の揺れ、水晶子の振動、電磁波の振動など)の繰り返しの回数を他の現象と比較できるだけであり、何か絶対的な時間そのものの歩みを計れるわけではない。
このような "常に一定の速さで過ぎる時間" という概念は、ガリレオ・ガリレイによる「振り子の等時性の発見」とその後の「機械式時計」の発達以降の近代において優勢になったとも言われる。それ以前には、例えば不定時法などはよく使われていたのである(「時刻」参照)。
場所により時間の流れる速さが異なるという考えは古代からある。例えば仏教の世界観では「下天の1日は人間界の50年に当たる」と言われている。また20世紀前半に確立された一般相対性理論によれば重力ポテンシャルが異なる場所では時間の流れる速さは異なる、とされるようになった。
また人が感じる主観的な時間の速さは、気分、年齢等により変化する、と言われている。例えば同じ曲を流しても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動・活動の後では遅く聴こえる事がある。こうした場合、感じている時間の速さに相対的な違いがあると言える。また、子供にとっての1年と、お年寄りにとっての1年の長さでは、それまで生きてきた時間の比率で見ると違っているとも考えられる。
生物個体の生理反応速度が異なれば主観的な時間の速さは異なると考えられる。例えば生物種間の時間感覚の相違については本川達雄の『ゾウの時間、ネズミの時間』に詳しい[13]。
時間が過去から未来へと進むまたは流れる、我々は過去から未来へと進むが逆には戻れない、というイメージを受け入れていない現代人は少ないだろう。例えば、"誰もが時間は一方向にしか流れないことに気づいている"[14]し、"私たちは日常経験から時間が過去から未来へ流れていくことを知っている"[15]。体験的には、我々は過去の記憶は持つが未来のことはまだわからない。具体的には、日常体験する多くの現象は、それらが時間的に逆に進行するような現象は起こり得ないように見える不可逆現象または非可逆現象である。不可逆現象の例には、生物の誕生や成長や死、固体である物体の破壊、砂糖が水に溶けるような溶解現象、摩擦による運動の停止、燃焼などがある。これらは不可逆変化または非可逆変化とも呼ばれる。自然科学、特に熱力学においては不可逆過程または非可逆過程という言葉がよく使われる。 不可逆現象の事例は、ビデオ映像や映画フィルムの逆回しで説明されることが多い。例えば、"桶の底に入れた一升の米と一升の小豆の混合"を写した映画フィルムの例[16]や、"瀬戸物店に闖入した雄牛"を写したフィルムの例[17]や、"アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程"のビデオ録画の例[15]、がある。 この時間的非対称性を、イギリスの天体物理学者アーサー・エディントンは1927年に時間の矢と表現した[18][19][20]。
時間的に逆に進行するような変化も起こり得る可逆性が厳密に成り立つような具体的マクロ現象を挙げるのは難しいが、振り子の運動や惑星の公転をニュートン力学により質点の運動として表した力学系では可逆性が成り立つ。これはニュートン力学の基本公式が時間の正負を逆転しても成立する時間反転対称性を持つからである[21]。また相対性理論も同様に時間反転対称性を持つ。分子や原子の運動は量子力学と電磁気学で記述できるが、これらの基本公式も同様に時間反転対称であり、このように記述された分子や原子の運動は"可逆性"を持つ。これは微視的可逆性原理と呼ばれる[21]。微視的可逆性原理からマクロ現象における不可逆性が説明できるか否かは、不可逆性問題または不可逆性逆理と呼ばれる自然科学上の、特に熱力学や統計力学上の問題である。
だが非常に多数の粒子系を記述する熱力学には時間非対称な法則、熱力学第二法則がある。これは、「孤立系内のエントロピーは時間と共に増大するか変化しない」また「ある系は自由エネルギーの低い方へ変化する」と言い表される。これは「ある物体より熱を取り、それをすべて仕事に変えて、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というトムソンの原理、「低温の物体から熱を取り、それをすべて高温の物体に写し、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というクラウジウスの原理と同等であり、熱現象の観察事実を法則化したものである[22]。
ここから逆に、熱力学第二法則が時間の向きを決めている[要出典]という仮説が.....によって唱えられた。箱の中の多数の粒子が最初に狭い範囲に集まっていてランダムな運動量を持つ場合、その運動を撮影すれば時間と共に箱の中に均一に散らばって行く。これがエントロピー増大の一例である。ここでフィルムを逆回しすれば最初に均一だった粒子が一箇所に集まる運動が見られ、これをもってして、常識的には明らかに時間が逆転しているのだ[要出典]、ともされるようになった。
ただし熱力学第2法則とは統計力学的には「もし変化が進むのなら、確率の大きい方(とりうる組み合わせの大きい方)へ進むだろう」というものでしかない。故に「逆回し」の「変化」を予測する場合にもエントロピーは「増大」してしまうことになる(つまり過去のエントロピー>現在のエントロピーという予測が成り立つ)。よって「エントロピー増大則」が常に成立するためには「変化は過去から未来に向かってしか起こらない」といった別種の時間の矢を前提としなければならない[要出典]、ともされる。だからエントロピーは時間の向きの「判定基準」にはなりえても、時間の矢そのものの説明にはならない[要出典]、とする考えもある。
第2法則説の変わり種として「記憶を含めた生命活動はエントロピーが増大する方向にしか働かず、故にエントロピー増大則が一般には成り立っていないとしても、知的生命体の認識する世界においては常にエントロピーが増大している。時間の矢があるようにみえるのはそのためだ。」[要出典]というものもある。実際コンピュータの記録はエントロピーの上昇を伴うし、生命活動においてもエントロピーの増大を利用することで方向性を持たせている反応もある(モーター蛋白質など)。この説に従うなら、(われわれから見て)エントロピーが減少していく系も存在しうるが、その内で生じる生命は(われわれから見て)「逆回し」な生命活動を行うはずであり、当人たちにしてみればやはりエントロピーは「増大」していくことになる[要出典]、ともされる。
素粒子論においてはCPT変換による物理法則の不変性がひとつのテーマとなっている。これは荷電共役変換C,空間反転P,時間反転Tの積であり、時間反転対称性が関与している[21]。
量子力学の観測問題におけるコペンハーゲン解釈では観測の瞬間に波動関数の収縮が起きるとされるが、この場合にも観測の前後で時間反転に対して非対称となる[要出典]、とされ、 波動関数自体は時間反転対照であるため、収縮を認めない多世界解釈の場合、時間の矢は存在しないことになる[要出典]、ともされるようになった。
このような時間的非対称性とは対照的に、我々の住む物理的空間では、前後左右上下いずれの方向にも我々は移動できるし、力学において物理的空間のモデルとされるユークリッド空間は、全方位で等方的である。言い換えれば、空間は各方向軸が反転対称だが時間は反転非対称であり過去と未来の向きを入れ替えることはできない、とされる。
現代人が通常考える時間やニュートン力学における時間は、無限の過去から無限の未来へ続く直線であり、これは数直線と同型である。また相対性理論においても一人の観測者が感じる時間、すなわちひとつの質点に固定された時計が計る時間(固有時)は、同様に数直線と同型である。だが他の構造の時間を考えることもできる。
過去と未来のどこか一点同士がつながっていれば時間の構造は円となる。この場合、歴史は全く同じ現象を何度でも繰り返すことになる。このような厳密な意味での円環時間の考えは、例えばニーチェの永劫回帰思想に見られる。また、アンリ・ポワンカレにより証明されたポアンカレの回帰定理が、上記のような厳密な時間の繰り返しを示したと解釈する人もいる[23]。だが、この定理は厳密に元の状態に戻るのではなく、元の状態の近傍に戻ると言っているだけなので厳密な時間の繰り返しを証明しているとは言えない。
全く同じ歴史が繰り返されるのではなく各繰り返しごとに少しずつ異なるという考えもあり、その場合は円環構造というよりは螺旋構造と言える。古代インドや古代ギリシャで見られるとされる円環時間の考えは、むしろこのような厳密には少しずつ異なる繰り返しであることが多いようである。
だが「直線的時間vs円環時間」と言った場合は、上記の純粋に幾何学的構造の違いとは別に、異なる歴史観の対比を指すことが多い。すなわち「歴史と共に人類の文明は進歩し続ける」、「歴史と共に人は神の国に近づく」というような見方を表すのが直線的時間であり、「時を経ても社会は同じような形態を繰り返すだけ」、「太陽の下に新しいことは何もない」というような見方を表すのが円環時間である、と表現される。この文脈では螺旋構造の時間は「似たような状態を繰り返しつつも次第に進歩する」または「一進一退を繰り返しつつも次第に進歩する」という見方になる。
SF作品の中には、通常の時間の流れから切り離された部分的な円環時間の中に閉じこめられる、というアイディアが登場するものがある。
時間が無限の過去から無限の未来へ続くのではなく、始まりと終わりのある有限なものという考えもある。[24]これは世界や宇宙の始まりと終わりを考えることと同じことになる。世界各地の神話における世界の始まりについては「天地創造」や「天地開闢 (日本神話)」「天地開闢 (中国神話)」に詳しい。また世界の終わりについては「終末論」に詳しい。「宇宙論」も参照のこと。
現在という時点において未来の可能性はいくつもあるが、時が過ぎればその可能性の中のひとつだけが現実化して過去となる。これが通常の時間観だが、この可能性の全てまたはいくつかが存在するとするのが分岐時間の考えである。分岐時間の構造は過去から未来へと分岐が増える樹形構造になる。分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているのだが、これらの同時進行する世界同士を互いに並行宇宙または並行世界(パラレルワールド)であると言う。
現代人が通常考える時間は連続体であり、実数で表せる。つまりいくらでも短い時間間隔が存在すると考えている。だが物質の最小単位として原子や素粒子があるように、時間にも最小単位があるのではないかとも考えられる。例えば映画フィルムのように一コマ以下の時間は存在しないという考えである。物理学ではこの最小時間間隔をプランク時間と呼ぶ。[26]
スティーヴン・ホーキングとジェームズ・ハートルは1983年に発表した無境界仮説において、複素数にまで拡張した時間を計算に使用した。ここから、宇宙の始まりでビッグバン以前の時間が虚数であれば時間的特異点が解消されるとも主張した。なお、相対性理論では時間軸の単位として虚数表現ictを使うことがありこれを虚時間とも言うが、これは無境界仮説での虚数時間とは別のものである。
「時間」とは、元来バラバラで全然関係の無い「瞬間」がランダムに並んでいるに過ぎず、時間の連続性や因果律など存在しないという考え[要出典]。
時間の進行を速くする、遅くする、停止するというアイディアは昔から見られる。例えば浦島太郎、リップ・ヴァン・ウィンクルのように特定の場所や状況で時間の進行が異なるという昔話がある。現在の科学の用語と絡めて語られる設定としては、"相対性理論を応用して亜光速の宇宙船に乗る"、"ブラックホール等の重力ポテンシャルの異なる場所を通る"などといったものがある。時間停止については該当項目を参照のこと。
時間そのものの進行を変える、とするものではないが、関連するテーマとして、主観的な時間が止まったり生理的な反応を遅くするという発想もある。昔話の眠れる森の美女などをそれと見なすことも可能である。SFの分野などでは、「人工冬眠」「コールドスリープ」「冷凍保存」といった設定が見受けられる。
ある物体や場所など宇宙の一部分のみの時間を逆転できれば、壊れた物を元に戻したり、死人をよみがえらせたり、無くしたものを取り戻したりできる、などとされる。
時間軸を空間の座標軸と同様に表現して見れば、空間を移動するのと同様に時間軸方向に自在に移動できないかというアイディアが生まれる。このアイディアの初期のものとしてはウェルズの小説『タイムマシン』が有名である。(タイムトラベルも参照可)
過去や未来の現象を直接観測することは現在知られている科学では原理的にできない。過去に起きたことや未来の可能性を知るのは、あくまでも現在の観測に基づいた推測によるのである。特に未来の直接観測は予知や予言と呼ばれる。タイムトラベルとは異なり過去や未来に直接関与するのではないが、いわば情報のみをタイムトラベルさせるのだとも言える。未来の直接観測は、それを知った者の現在の行動が変わることで未来を変える可能性がある、などと考え、これは一種のタイムパラドックスを生む、などと考える人もいる。
^ これに関しては「時間は林檎のような物ではない」「戦争のような出来事ではない」「特定の物に備わっている性質やそのカテゴリーでもない」などといった「〜ではない」系の表現も多々見られる[要出典]。ただし、「〜ではない」系の表現は、実際は誰でも(幼稚園児でも)簡単に数百でも数千でも(ほぼ語彙の数だけ)作れるものである。この類の表明は、一種の存在論的表明と見なすことも可能ではあるかもしれないが、(衒学趣味の人間や、ただの評論家や、若者などがこの類の表現を多用する傾向があり[要出典])、単なる言葉遊びにすぎず、ほとんど無意味な表明、と見なすことも可能である。哲学的探求とは通常、これ以上の記述を構築してゆくものである。
^ ただし湯川秀樹は、ニュートンは自然の空間や時間が本当は均一ではない、と睨んでいたからこそ、あえて自らの体系の中で仮想されている空間や時間を「絶対空間」や「絶対時間」と呼んだのだ、といったことを指摘している(出典:『湯川秀樹著作集』岩波書店)
^ 時間に最小単位が無いとすると、さる理論のさる系のランダムさが無限に増大してしまうことになる、という理論上の難点を、プランク時間を導入すると解消できた、とも説明されている(出典:培風館『物理学辞典』)
^ 本来時間そのものは図示できるものではないが、この時間のありかたを、あえて図式で表現すると、直線ではなく線分に相当するとも考えることは可能である
^ タイムトラベルを扱うSFや疑似科学ではタイムパラドックスの解消のために分岐時間を使う、などという設定、発想が多く見られる。
^ [要出典]因果律が存在しない以上歴史を改変したところで以降の時間になんの影響もないことになる、とされる。

 

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