東海銀行とは?/ セントラルファイナンス
[ 2] 東海銀行 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%8A%80%E8%A1%8C
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東海銀行は、1941年に、愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の3行が合併して設立された。中部圈に本店を置く唯一の都市銀行であり、中部圏財界の名門企業群の俗称である「五摂家」(他の4社は中部電力・東邦瓦斯・名古屋鉄道・松坂屋)の一員として主導的役割を果たしてきた。しかし、全般的には都銀中位行で推移し、またバブル期の首都圏進出も不良債権を築き上げただけであった。都銀各行がメガバンク再編に向かう中、結局、2002年1月、三和銀行と合併し、株式会社UFJ銀行となった。本店は、愛知県名古屋市中区錦3丁目21番24号にあった。 株式会社伊藤銀行は、名古屋の富豪伊藤家の金融事業(個人経営の伊藤為替方)に端を発し、1881年6月、名古屋最初の私立銀行本店として設立され、いわゆる伊藤財閥の中核として機能した。1938年と1939年に中埜銀行・知多銀行を合併している。 上記3行は、中部圏の商工業の興隆、他銀行の買収・合併などによって着実に業容を拡大し、1940年末における愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の預全量は、全国普通銀行292行中それぞれ第10位・12位・32位であった。 1941年6月、政府の「一県一行主義」の方針に従って上記の3行が合併し、資本金3760万円で株式会社東海銀行が設立された。当時の業容は、預金8億9300万円、貸出金4億0300万円、店舗数141カ店、従業員3468人であった。その後、東海銀行は銀行業整備の国策に基づいて、1945年に中央信託信託部門の営業を譲り受け、同時に愛知県内の岡崎銀行・稲沢銀行・大野銀行の地元銀行を相次いで合併し、県下唯一の本店銀行となった。設立後終戦までの同行は、中部圏の地場産業等に対する戦時統制の制約を受けながらも、預金、貸出を順調に拡大させた。 戦後の復興期においては、旺盛な産業資金需要を円滑に供給するという使命のもとに、預金の獲得に注力した。1949年6月には、同行独自の割増金付き定期預金であるミリオン定期預金を販売し、預金者の好評を得た。一方、融資面では、地元産業の復興・育成を強力に推進するとともに、東西の支店においても積極的な融資活動を行った。 また1949年11月には、外国為替管理法の制定に伴って甲種外国為替銀行の認可を受け、外為業務を拡大させた。1954年3月には、同行初の海外拠点としてニューヨーク駐在員事務所を開設した。 1959年9月に東海地方を襲い死者・行方不明4400人余り、総額約5000億円の被害を与えた伊勢湾台風は、同地域を地盤とする東海銀行にも店舗網等で大きな打撃を与えた。同行では、急減非常対策委員会を設置し、救援物資の供出など被災者の援助に努める一方、業務面でも、災害関係特別融資を実行するなど、中部経済圏の復興に奔走した。 日本経済の高度経済成長期、東海銀行は融資構造を産業構造の変化に適応させるとともに、中小企業金融や個人取引の充実に努力した。個人取引に関しては、1961年に、ミリオンローンの取り扱い開始を皮切りに、耐久消費財関連のローン制度、住宅ローン制度の整備などを進めた。また顧客の多様な金融ニーズに応えるため、1968年株式会社ミリオンカードサービス(現・三菱UFJニコス)、翌1969年セントラルリース株式会社(現・三菱UFJリース)など、相次いで関係会社を設立した。 日本経済が2回のオイルショックを経て安定成長期へ移行するなか、各銀行は多様化する金融ニーズへの対応に注力していた。東海銀行でも、1982年4月には金の店頭販売、1983年4月には長期国債の販売、1984年6月には公共債ディーリングなどを開始。法人部門では、1983年11月の東海パソコン情報サービスをはじめとするファーム・バンキングの充実、1988年2月初の法人取引店舗麹町支店の開設などを実施した。 また、1991年6月に創立50周年という大きな節目を迎える中、これを気に業務関連事業と社会関連事業の2つの記念事業を展開した。業務関連事業では、本店と全営業店をリアルタイムで結ぶ銀行界初の衛星通信システム「SWAN」を導入、社会関連事業では、美術品の展示、文化遺産の保護、コンサート開催などを通じて、地域文化の発展に努めた。1975年5月に東海財団、1983年9月に東海銀行国際財団を設立するなど、早くから社会貢献活動を重視し、1992年6月には社会貢献活動推進室を設置するなど、その充実に努めた。 バブル経済の崩壊は、首都圏にて積極的な営業展開を図っていた、東海銀行にも経営の転換を迫らせた。1991年10月には三和信用金庫と合併し、営業基盤強化を図る一方、1992年4月には第9次長期経営計画をスタートさせ、生き残りをかけた不良債権処理を進めていく。 こうした中、もはや単独での生き残りは困難と考えた東海銀行は、1998年9月、同じく地銀的性格を持つ都銀中位行であったあさひ銀行(現りそな銀行・埼玉りそな銀行)と、2000年10月を目処に持株会社方式の経営統合で合意、2001年秋には、地域別に銀行を再編し、さらに賛同する地方銀行を組み合わせ”マルチ・リージョナル・バンク”を目指す方針を立てた。東海銀行があさひ銀行をパートナーに選んだ理由として、規模的に大差がないことに加え、あさひ行内が旧埼玉銀行系と旧協和銀行系で人事抗争を繰り返しており、東海銀行で主導権が握れると考えたためであった。 1999年8月に第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行による3行統合(みずほフィナンシャルグループ)、続く同年10月にはさくら銀行・住友銀行の合併(三井住友銀行)が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のメガバンクへの再編が進む。両行の交渉が長引く中での相次ぐ金融再編で、「東海・あさひ」連合は、規模的に中途半端となっていた。 こうした金融再編に一人取り残されていたのは、その強烈な行風が世間の反感を買った三和銀行であった。再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身[4]であった「東海・あさひ」連合に急接近する。「東海・あさひ」連合も、スケールメリットを希求する中で、2000年3月、この「3行による持株会社統合」を受け入れることになった。東海銀行にとって、三和銀行は1.6倍の規模を持っていたが、あさひ銀行と組めば、主導権を取られまいと考えていた。 しかし、三和銀行は経営の迅速化を名目に3行の合併を主張し始める。また、営業政策でも、欧米のリージョナルバンク(地域銀行)を模範とする地域密着型の戦略を重視するあさひ銀行と、統合によって自己資本を充実させ、国際業務や大企業融資を重視するマネーセンターバンク戦略を重視する三和銀行の新銀行戦略との隔たりは大きかった。経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行は、2000年6月に構想より離脱[5]する。 結局三和銀行と東海銀行の合併という形になり、存続会社も新銀行代表者も存続する勘定系システムも全て三和銀行が主導権を握った。東海銀行は唯一、本店所在地を確保したのみであったが、事実上の機能は三和銀行東京本部に置かれた。また、持株会社であるUFJホールディングス社長ポストは獲得したが、後に輪番で担当する全国銀行協会会長ポストは新銀行代表者である旧三和銀行が抑えた。 ^ 事件後、日銀出身の新井永吉副会長兼首都圏営業本部長が責任を問われ更迭されたが、これを”日銀天下り排除”と受け止めた三重野康日銀総裁が反発し、日銀は直ちに東海銀行に対する日銀貸出の1,000億円の回収を打出した。この露骨な制裁は多くのメディアで批判されたが、結局、後任天下りとして青木修三日銀業務局長を国際部顧問として迎えることで決着した。 ^ 当時、3行の首脳であった室町鐘緒・三和銀行頭取、西垣覚・東海銀行会長、伊藤龍郎・あさひ銀行頭取は、ともに名古屋大学出身であった。 1959年 に、千代田生命保険(2000年、経営破綻)・千代田火災海上保険(現・あいおい損害保険)・トーメン(現・豊田通商)と提携、以降、この4社に中央信託銀行(現・中央三井信託銀行)を加えた金融5社で「さつき会」を結成していた(トヨタ自動車はオブザーバー参加)。しかし、構成した5社がいずれも単独では生き残れなかったため、現在は実質消滅している。 この項目「東海銀行」は企業関連の書きかけ項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 経済)。 |
[ 3] UFJ銀行 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/UFJ%E9%8A%80%E8%A1%8C
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2006年1月1日に東京三菱銀行に合併されて解散した。以後の歴史などについては三菱東京UFJ銀行を、旧三和銀行ならびに旧東海銀行の歴史などについては、三和銀行、東海銀行の各項目を参照。 当初は、1998年9月にあさひ銀行(現:りそな銀行・現:埼玉りそな銀行)と東海銀行が2000年10月を目処に持株会社方式の経営統合で合意、2001年秋には地域別に銀行を再編し、さらに賛同する地方銀行を組み合わせ“マルチ・リージョナル・バンク”を目指す方針だった。 しかし、両行の交渉が長引く中で、1999年8月に第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行による3行統合(みずほフィナンシャルグループ)、続く同年10月にはさくら銀行・住友銀行の合併(三井住友銀行)が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のメガバンクへの再編が進む。こうした金融再編に一人取り残されていたのは、強烈な行風が倦厭された三和銀行であった[3]。 再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身[4]であった「東海・あさひ」連合に急接近する。「東海・あさひ」連合も、金融再編の中、規模的に中途半端となっていた為、2000年3月、この「3行による持株会社統合」を受け入れることになった。 しかし、三和銀行は経営の迅速化を名目に、三行の合併を主張したために、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱。結局、三和銀行と東海銀行の合併という形になった[5]。 通常、合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供するとの主旨の下、合併期日の2002年1月15日に両行の基幹システムを旧三和銀行系に統合している。これによって顧客は、旧三和・旧東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月25日から26日にかけて、二重引落などのシステム障害が発生。3ヵ月後の、みずほ銀行の合併処理とともに社会問題となった。 こうして発足したUFJ銀行は、三和銀行時代から引き継がれた体育会系的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、当時の4大メガバンクのなかで三井住友銀行に次ぐ収益力の高さを誇っていた。反面、旧三和・旧東海はそれぞれ近畿地方・東海地方を地盤とする銀行であり、首都圏における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。 また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れるダイエー、ニチメン・日商岩井(現・双日)、日本信販(現・三菱UFJニコス)、アプラス、大京、藤和不動産、ミサワホーム、国際興業、国際自動車などに対しての貸し出しの焦げ付きや過剰な貸付、それらに対する損失引き当て不足が当初から懸念されており、多額の不良債権比率はメガバンクでは最も高いとされた。結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び不良債権の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字の計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。 特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、住友銀行がそれぞれ5,000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、UFJ銀行の発足によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。 2002年9月に金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に竹中平蔵が就任した。同年10月には「金融再生プログラム」が発表され、大手行に対して、2005年3月末までに不良債権残高を半減するよう要求した。これを受け、みずほフィナンシャルグループが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件でゴールドマン・サックスに優先株を発行し、さらにわかしお銀行との逆さ合併により含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進める。 しかし、全国銀行協会会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。サッカーをしていたのに、突然、アメリカンフットボールだといわれても困る」と反発した。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。 ただ、必ずしもまったくの無為無策というわけではなく、2003年3月、メリルリンチから1,200億円の増資を行い資本強化、また、その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていたUFJ銀行の持ち株会社UFJホールディングスの株式をモナコの投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。 結果、日本の株式市場は「りそなショック」を経て株価は上昇に転じUFJ株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。ただし、金融庁から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。業務改善命令に対して約束した利益は1,300億円程度であった。 当時のUFJ銀行内は旧三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧東海の1.6倍あった旧三和が主導権を握っていた。旧三和行員は、“緑化作戦”(旧三和のロゴカラーが緑色であることによる)と称して旧東海行員を放逐し、愛知県を中心に旧東海店舗を30店近く統廃合していた。こうした動きは、名古屋財界からの不満を招き、東海3県における預貸シェアは低下していく。また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。 2003年10月に実施された金融庁特別検査では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」[6]により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。 この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取(慶應大卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時にMOF担だった早川潜常務(一橋大卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。また、「成り行き」・「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。 岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。旧三和銀行は、尾上縫事件や大蔵省接待汚職事件等、過去の金融スキャンダルでは常に自行に有利な事後処理を実現していた。特に1998年の大蔵省接待汚職の際は、当時MOF担だった早川常務を中心に東京地検特捜部に積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不評をかっていた。また早川自身も、金融当局に対してはかねてより反抗的であった。 こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、敵対派閥からと見られる内部告発により前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場の検査官の逆鱗に触れることになる。また、2004年1月、日本経済新聞が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4,000億円にのぼる増資は取り止めになった。さらに、2004年4月、今度は中日新聞がスクープの形でUFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ金融庁に約束した利益が未達となり寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。 メガバンク再編前、全国銀行協会会長を輪番で担当する都銀大手6行(他は東京三菱銀行・第一勧業銀行・さくら銀行・住友銀行・富士銀行)の中で、旧三和銀行は唯一地方銀行の業容が拡大した銀行であった。このため、旧財閥系や特殊銀行を起源とする他行[8]に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。これらは、必然的にリクルーターを通じて、学閥内の繋がりが密接になり、人事抗争を展開する事になる。他行はこれを“三和のDNA”と蔑称した。 特に、渡辺滉頭取(一橋大卒)時代、企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に、一橋大・京都大出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。中村は、高杉良の小説『金融腐蝕列島』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“七奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ銀行最後の頭取となる沖原隆宗が居た)を補佐官として登用し、権勢を揮う中、実際に業務純益・経常利益・当期利益で都市銀行トップを実現した。 こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は、1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取(東京大卒)の主導権争いで爆発し怪文書等の流布等、陰惨を極めた。結局両者が辞任し、中間派の室町鐘緒(名古屋大卒)が頭取に昇進したものの、2002年、UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。 室町の後任は、秘書室長経験者だった寺西正司(大阪大卒)であった。寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長(慶應大卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し、旧三和でフィナンシャルワンを立ち上げるなど、かつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)をアプラスに転出させ[9]、また、旧東海で合併を担当した藤田泰久常務(京都大卒)に事実上退行を迫り[10]、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。 前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任し、沖原隆宗(慶應大卒)が取締役付きでないにも関わらず、常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。この時、沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ。」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている。」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる。」などとのべ不良債権処理の断行を示唆した。 しかし、人事面で見れば、寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を日本信販会長へ、中村常務をJCB専務への転出[11]を決定し、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である佐野極秘書役(京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。 こうした旧態依然たる人事施策は、再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなく、UFJ消滅への遠因となった。その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊し、派閥抗争の余裕すら失っていく。 前述の巨額赤字決算は自己資本を大きく毀損し、このままでは国際業務に必要な自己資本比率8%の維持が困難となった。このため、2004年5月21日に持株会社のUFJホールディングスはUFJ信託銀行を住友信託銀行へ3000億円で売却すると発表せざるを得なくなった。しかし、この売却でようやく繰延税資産の自己資本への組み入れが監査法人に認められて、2004年3月期の自己資本比率割れを何とか繕っている形であり、UFJの不良債権処理は体力的に難しい問題を抱えていた。特に問題になった債権はダイエー、双日で貸付の規模は1兆円を上回っていた。この発表からわずか3日後の5月24日、UFJホールディングスの2004年3月期決算がUFJ信託銀行の売却でも埋められない大幅赤字となることが判明する。 これに対して、住友信託側が東京地方裁判所に交渉差し止めを求める仮処分申請を行ない、東京地裁は2004年7月27日、当該仮処分申請を認める決定を下した。UFJ側がこれに対し異議を申し立てるも、8月4日に却下された。 さらに、UFJ側は即日東京高等裁判所に抗告し、2004年8月11日、東京高裁は、地裁の決定を取消し、三菱東京とUFJの統合交渉を可とする決定を下した。住友信託側は同日、最高裁判所に特別抗告を行ったが、最高裁は8月30日、高裁の判断を妥当とし、住友信託側の申請を退ける決定が確定した。その後、住友信託側が売却の白紙撤回に対する民事訴訟に切り替えてUFJ側と争ったものの、2006年11月21日に東京高裁の提案による住友信託に対して25億円の和解金を支払う事で和解が成立した。 2004年秋までには、三井住友側が大勢を覆すには至らないのは明白になっていくが、この三井住友側の動きが、三菱東京との交渉においてUFJ側に有利に働いたことは否定できない効果であった。 この間、UFJは三菱東京との統合前に不良債権処理を進めていく。特に、UFJグループのなかでもっとも問題とされたのはダイエー向けの債権だった。当時のダイエーは中内功の会長退任後、高木邦夫の指揮下で資産の売却や売り場の改善を進めていたがその売り上げは低迷凋落の一途をたどっていた。高木は2002年3月に決まった再建計画の途中(期限は2005年2月)でメインバンクサイドの意向で産業再生機構に送られてしまうことに難色を示した。また経済産業省もこれを支持していた。しかしダイエーの決算の前提に金融機関の支援の不可欠とする監査法人の見解を受けて高木が翻意して再生機構へ送られることが決定した。 もっとも、戻益の過半を占める繰延税金資産の計上は、経済環境の好転もさることながら、経営統合により収益性が増したために可能であったとの見方もあり、一概には言えない。 旧三和・旧東海時代には本店の営業窓口においても「本店営業部」と呼称したが、合併にあたり登記上本店を、名古屋にあった旧東海銀行本店としつつも、本社機能は事実上旧三和銀行東京本部に置いたためUFJは、本店営業部と呼称する営業店を設けなかった。 尚、東京本部内には「東京営業部」があったが、これは合併前の旧三和店舗であり、旧東海の「東京営業部」は合併時に「東京中央営業部」と改称後、旧三和・東京営業部に統合・閉鎖された。 さらに、旧東海の「東京公務部」は「虎ノ門公務部」に改称後、旧三和の「東京公務部」に統合されたが、その跡地に統合後の東京公務部が設置された。 この項目「UFJ銀行」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。 ^ 1990年代前半に富士銀行との合併も検討されたが、この時は公正取引委員会の許可が出ずご破算になった。また、1998年頃、東京三菱銀行との交渉もあったが、東京三菱側が合併間もないこともあり、雲散霧消した。しかし、この事が後の救済合併の伏線になる。 ^ 当時、3行の首脳であった室町鐘緒・三和銀行頭取、西垣覚・東海銀行会長、伊藤龍郎・あさひ銀行頭取は、ともに名古屋大学出身であった。 ^ 金融庁に提出した経営計画の目標数値が2期連続して3割以上下回った場合、その経営責任を問うというもの。 ^ 東京三菱・さくら(太陽神戸銀行と三井銀行が合併)・住友・富士(旧安田)は旧財閥系であり、第一勧銀(第一銀行と日本勧業銀行が合併)は前身の第一が1873年8月1日に営業開始した日本初の商業銀行で、勧銀は旧特殊銀行である。 |
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