甲子園とは?/ セントラルファイナンス
[ 130] 阪神甲子園球場 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92%E7%90%83%E5%A0%B4
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阪神甲子園球場(はんしんこうしえんきゅうじょう)は、日本・兵庫県西宮市甲子園町にある阪神電気鉄道が所有する野球場である。通称は「甲子園球場」、日本野球界では単に「甲子園」と略されることが多い。プロ野球のセントラル・リーグの阪神タイガースの本拠地球場となっている。 日本で最初に誕生した大規模野球専用競技場であり、プロ野球球団の本拠地の中で最大の収容人数である。広さは屋外球場としては最大である。高校野球のシーズンになるとしばしば「日本野球の聖地」と称され(大学野球では神宮球場が聖地と呼ばれる)、マスコミもそう言い習わすことが多い。 阪神タイガースのホームグラウンドとしてプロ野球公式戦が開催されるほか、春・夏の高校野球が開催される球場としても知られ、「甲子園」といえば高校野球全国大会(春の選抜高等学校野球大会および夏の全国高等学校野球選手権大会)の代名詞となっている。この「甲子園」の名称は高校野球の代名詞に端を発し、今や野球に留まらず高校生の各種全国大会の代名詞として使われることもあり、特に高校生程度の若者が行う野球競技以外の文化系の部活動を中心に、その全国大会を『○○甲子園』と称している場合がある(甲子園の名がつく高校生大会一覧も参照)。 ただし、様々な競技が同時進行で行われる高校総体や国体、あるいはサッカーやラグビーといった競技の全国大会については、そのものが知名度が高い大会であるため「甲子園」と呼ぶことはない(サッカーは「国立」、ラグビーは「花園」と呼ばれる)。わかりやすく言えば、高文連主催でない文化系部活動の各種全国大会で「○○」甲子園と呼ばれることが多い。 かつてはサッカーJリーグエキシビションマッチや、戦前にはスキージャンプ競技大会など、野球以外の競技にも数多く使用されたが、現在は毎年12月開催のアメリカンフットボール東西大学王座決定戦「毎日甲子園ボウル」以外で定例的に使用されるケースはない。 近年は大学野球の試合にも使用され、毎年春・秋に開かれる関西六大学野球連盟と、関西学生野球連盟リーグ戦の一部試合(関関戦含む)が当球場にて実施されている。 南から北にかけて吹く浜風が強い日は、上空で風が舞っていて野手を悩ませる球場である。特に右方向(南)へ打球を飛ばす左打者にとっては不利な球場であり、この浜風で本塁打を損している選手は非常に多い。一方で、左方向の打球はよく伸びる。この浜風の特性を利用して、左打者であった掛布雅之やランディ・バースらは、芸術的と評される流し打ちでレフトスタンドへ本塁打を量産した。 ただ、アルプススタンドと外野スタンドの“隙間”は風の抜け道となっており、浜風が舞っている日でも右翼ポール際への打球はよく伸びる。 この浜風が発端となり試合の流れが180度変わってしまう事がみられるため、高校野球の試合の実況では「甲子園には魔物が棲んでいる」と言われる事がある。 プロ野球の応援や歓声は周囲の住宅に大きく響くため、午後10時以降はトランペット・太鼓を使った鳴り物応援は禁止となる。但し、阪神勝利時の六甲おろしは午後10時以降でも合唱される。 バックネット裏を覆う「銀傘(ぎんさん)」と呼ばれる大屋根、時計台型のスコアボード、そして蔦(つた)に覆い尽くされた球場外周の外壁が特徴。 銀傘は開設当初「鉄傘(てっさん)」と呼ばれ内野席全体を覆っており其の素材から「大鉄傘(だいてっさん)」と呼ばれて、更に1930年には女性客の人気を狙ってアルプススタンドまで拡張された。しかし、1943年に太平洋戦争のあおりで鉄骨を軍事産業に提供するために取り外され、その後1950年まで7年間は青天井の状態が続いた。その後1951年にジュラルミン製の銀傘として復活したが、一・三塁内野席の半ばからネット裏の客席にだけの開設当初より小さいものが設置された。1982年にアルミニウム合金製に葺き替えられ、現在に至っている。 銀傘を支えるための柱が客席内に立てられており、後ろの客席からは柱が邪魔になるため観戦し難くなっている。2008年の改修で架け替えられる新たな銀傘は、客席内の柱をかなり上段に設置する予定であり、土台はすでに存在している。また、新たな銀傘は一部の報道にあったようなアルプススタンドまでのものではなく、開設当初と同じ大きさのものである。 銀傘の中央部には、野球中継で使用するためにテレビ各局が共同でリモコンカメラを設置している。このカメラは2台設置されており、地上波の並列中継があってもそれぞれ1台ずつ使用できる(ハイビジョン対応)。 平屋建てで収容人員46,000人以上という規模からもわかるように、非常にスケールの大きな球場である。特に、外野席は他球場の倍程度の規模を誇り、他に類を見ない。よく阪神タイガースの新外国人選手が開幕前に阪神甲子園球場のフィールドに足を踏み入れて「非常に大きな球場だ」と驚く姿が関西のスポーツ新聞の1面を飾る事がある。また、内野席は最前列がグラウンドレベルになっており、通常グラウンドレベルにある本塁後方のアナウンス室などは半地下となっている。 スタンドの設計は優れており、どこからも見やすく工夫されているが、リニューアル工事(後述)前の座席の座り心地は現代の球場の基準からすれば劣る部類に入っていた。特に座席の間隔が狭いために足元に荷物が置けない席が多く、売店に物を買いに行くときなどの席の出入りは困難を伴った。内野席のリニューアル工事では最大収容人員が減らされ、居住性の改善がなされた。リニューアルの済んでいないアルプススタンド、外野スタンドは長椅子で傷みも激しい。また、現在内野スタンドと外野スタンドに建っている照明塔も客席内に立っている柱が邪魔になるためリニューアル工事で撤去し、新たに球場の外に(前方の柱は最上段付近)照明塔を建てる予定である。 内野スタンド、アルプススタンド、外野スタンドはそれぞれわかれた構造となっており、一般客の通り抜けはできない。それぞれスタンド間にはグラウンドから球場外まで通じる通路があり、リリーフカーの出入りや観客の退場路などに使用されている。 アルプススタンドの1階は室内練習場となっており、客用の通路、売店、トイレ、喫煙所は3階となっている。また、3階の通路は狭く、トイレは外壁から外に突き出したような感じで設置され通路から中が丸見えである。通路の先端には立食形式の軽食堂があり、カレーライス、うどん、お好み焼、焼き鳥、かき氷等が売られている。 外野席の売店、食堂は通路に椅子、テーブル、調理台を並べた形となっている。日によっては焼き鳥や串焼きの煙で外野席の上空が少し霞んでいることもある。 バックネット裏の「グリーンシート」を中心として、外野スタンドに向かって「アイビーシート」、「アルプス席」と続いている。さらにフィールドシートとしてグリーンシート下部に「TOSHIBAシート」、アイビーシート下部に「みずほ銀行シート」を設けている。これらのフィールドシートの名称はネーミングライツによるもので、2008年からの5ヵ年契約(高校野球開催時を除く)である。なお他の多くの球場と違い、フィールドシートには防球用の金網があり、さらに後列との往来は制限されていない。 2006年からレフト上段に「ビジター応援席」が設置されるようになった。ただし巨人戦と千葉ロッテ戦(翌2007年から)のみ下段最前列まで設定されている。2008年からは他の球団の範囲を若干増やした。(もともと対中日戦、対広島戦のみ増やす予定だったがコンピュータの不具合でほかの7球団でも増えることとなった。)なお、大阪ドームを同じ本拠地とするオリックス戦のみ、観客席でのトラブルをさけるためにアメリカの「シカゴカブス対シカゴホワイトソックス」、「ニューヨークヤンキース対ニューヨークメッツ」のように三塁側の分配を検討している。 高校野球においては全席自由席となり、グリーンシートとTOSHIBAシートが「中央特別自由席」、アイビーシートとみずほ銀行シートが「1塁特別自由席」と「3塁特別自由席」になる。アルプス席はそのままであるが、学校の応援団が優先となる。外野席は無料開放(入場制限はある)される。 2001年まで「アルプス席」という名称は高校野球開催時のみ使用されていたが、プロ野球でも「アルプス席下さい」という人が後を絶たなかったので、2002年以降はプロ野球公式戦でも「アルプス席」という名称を用いている。巨人戦 およびオールスター戦・日本シリーズなどの特別試合では『内野B指定席』と呼ばれていた。その他のプロ野球公式戦では、アルプススタンド=『内野自由席』であった。 改築前の座席区分はフィールドシート部分が「ボックスシート」、アイビーシート部分が「イエローシート」(一塁側)・「オレンジシート」(三塁側)であった。グリーンシート部分は今より狭いものであった。また席の色は緑・黄・オレンジとそれぞれ名称別に塗りわけられていた。また2001年シーズンまでアルプスを除いた内野席上段部全体を『内野A指定席』と設定し、緑色のシートが設置されていた。 星野仙一は監督時代、オレンジシートを指して「あれじゃジャイアンツカラーじゃないか、変えたほうがいい」と言っており、実際に他の色に塗り替えられるのでは、とよく噂された。また星野は「あのシートをファンで埋めて、見えないようにしたい」という趣旨の発言もした。そのため、インタビューなどで「甲子園に来てください」と発言するようになった。さらに選手も同様の事を行い、観客増加に力を入れた。ただ、オレンジシートのメンテナンスはイエローシートほど行き届いておらず、色が褪せたり傷んでいる椅子もいくつか見受けられた。 アルプススタンド内部は簡易室内練習場となっており、プロ野球ではここにあるブルペンを使用し、中継ぎ投手が肩を作っている(指名されたら、アルプススタンドと外野スタンドの隙間からリリーフカーに乗せられ、マウンドに向かう)。アルプススタンドから通路への出入口が上部にしかないのはこのためである。室内練習場になる前は、一塁側は体育館、三塁側は25mの温水プールであった。「三塁側の室内練習場は天井が一塁側よりやや低く、床も高くなっている」「三塁側室内練習場の外にはマンホールが多数設けられている」など、元がプールであったことを彷彿とさせる部分が今も確認できる。 高校野球では雨天時や試合前の練習に使用されるのみで、試合中はファウルゾーンにあるブルペンを使用する。 建築当初はグラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状であったため、中堅120m、両翼110mに対し左右中間が128mもあるという設計で、1934年の日米野球に出場したベーブ・ルースをして「この球場ではホームランは打てない」と驚かせた。その後スタンドの増築工事に伴ってフィールドは現在の扇形となり狭くなったが、それでもなお日本の野球場としては広大であり、小柄で非力な当時の日本人選手の体型とボールの品質の低さもあって、本塁打が極端に出にくい仕様であった。これがラッキーゾーン設置のきっかけとなった。 現在では中堅120m、左右中間119m、両翼96mという数値が公表されている。東洋一とも言われる左右中間の深さを生み出す外野フェンスのゆるやかな曲線は、他の球場には見られない独自の形状である。両翼はアルプススタンドが前方に張り出しているために数値としては小さいが、その部分はわずかであり、ゆるやかな外野フェンスがポールのそばで急に角度を増すような形状である。このため実質的には両翼も充分な広さを持っている。 内野グラウンドは独特の黒土である。鹿児島、鳥取、大分など日本国内の黒土と中国福建省の白砂をブレンドしている。季節の雨量や太陽光量などを考慮し、春は白砂を多く(黒土5.5:白砂4.5)、夏は黒土を多く入れる(黒土6:白砂4)などしてブレンド具合を変えている。内野で激しい動きを見せるボールの行方を、球場観戦者にも見えやすくするための配慮である。 高校野球では敗戦するとこの土を持ち帰ることで有名。 外野グラウンドは、日本のプロ野球の本拠地としては稀少となった天然芝である。開場当初は外野も土のグラウンドであったが、1928年12月から1929年2月にかけて張り付けられた。 1982年からオーバーシードといわれる芝の二毛作方式を採用している。夏芝「ティフトン」と冬芝「ペレニアル・ライグラス」を用いることによって、一年中芝生でプレーできるようになった。夏芝から冬芝への張り替えが9月下旬から10月上旬、冬芝から夏芝への張り替えが4月下旬から5月上旬である。 ピッチャーマウンドのプレート後部には、放水用の蛇口がある。高校野球の試合前に、7〜8人の整備員が一列に並んで内野全体に大型のホースで水を撒いている姿がよくテレビで放映される。この水は井戸水で、海から近いために若干の塩分を含んでおり飲用には適さない(夏の高校野球名物「かち割り」に使われる水は六甲山系の天然水を用いている)。かつて、近畿で真夏に異常渇水に見舞われた時、井戸水を使用していることを知らない人たちが「水の使いすぎ」と問題視したこともあった。 外壁を覆う蔦は1924年12月に植栽された。正面の7号門と8号門の周りには日当たりの悪いところでも生育しやすいウコギ科の蔦を、その他の部分は冬に葉を落とすブドウ科の蔦を採用し、阪神園芸の手で管理されている。かつては約430株ほどが植えられ、葉の総面積はおよそ畳8000畳分あると言われた。 リニューアル工事のため今は蔦はない。その代わりに、蔦をイメージした緑のパネルで覆われている。蔦は現在、全国の高校野球連盟加盟校で育てられている(2000年(平成12年)に高校野球20世紀メモリアル事業の一環として同校達に蔦の苗木が送られた)。一部が数年後に甲子園に植えられて緑の甲子園が戻る予定。 1924年7月31日 - 西宮市の武庫川の支流である枝川、申(さる)川を廃川とし、その川沿いに埋め立てられた場所に完成。国内の球場では参考に成る物がなく、アメリカ合衆国ニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地・ポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われている。完成するまでは紅洲(べにす)遊園地と名づけられていたが、この年の正月に阪神電車関係者が西宮えびす神社に参拝した時に十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)が60年に1度来ると言う縁起の良い年である事から後に阪神電車甲子園大運動場(はんしんでんしゃ こうしえんだいうんどうじょう)と命名された。当初は陸上競技場としても利用される事を念頭に設計され、また内野席全体(現在のアルプススタンドを除く)に鉄傘が設置され当時の大きさから大鉄傘といわれた。?落としは阪神間学童運動会。同年夏から全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の主会場となった。12月に蔦が植栽される。 1929年 - 内野東西スタンドが木造から、鉄筋コンクリート50段、高さ14.3mに改築。その夏開催された中学野球の折、観客の着衣でスタンドが白く映え上がって見えた事から、当時の人気風刺漫画家・岡本一平(岡本太郎の実父)が、朝日新聞に「ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ万年雪ガアリサウダ(外スタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ、上の方には万年雪が有りそうだ)」とイラスト入りの投書を寄せたのをきっかけに、「アルプススタンド」の通称が付く[1]。 1931年10月1日 - 三塁側アルプススタンド下に温水プール開場(1937年、甲子園プール完成に伴い閉鎖・現在は3塁側のブルペンに其の姿を変えているがブルペンの至る所にプールだったと言う証拠が分かる)。 1948年 - フランチャイズの暫定導入に伴い、タイガースだけでなく南海ホークスも本拠地として使用した(本来は大阪府の中百舌鳥球場を使うところだが、施設上の問題から公式戦では使われず、当球場を使用した)。 1958年 - スコアボードが完全手書き式に変更(※1934年に完成した2代目(通算3代目)のスコアボードは得点部分が機械仕掛けで表示される仕組みだったが、ナイター設備完成時に照明が反射して見辛いという苦情がきたためガラスを撤去。すると今度は雨で機械が故障するというアクシデントが生じたため結果完全手書き式になった)。スコア表示と下段を一部改造。 1973年10月22日 - 阪神対読売ジャイアンツ戦、勝ったチームがセ・リーグ年度優勝を決める試合で、巨人が9-0で勝ち、日本プロ野球記録の9年連続リーグ優勝を決めるが、阪神ファンが試合終了後余りの不甲斐ない試合に激怒し乱入。巨人の胴上げは宿舎で行う。 1992年 - ラッキーゾーン撤去、両翼大拡張(両翼91m→96mに)。同時に、ラッキーゾーン内にあったブルペンも廃止され、ファウルグラウンドにあるブルペンを使用する事に。現在、ラッキーゾーンのフェンスは甲子園に最も近い県立西宮今津高校の中庭に立てている。 1993年 - スコアボード右半分がカラービジョンになる。勝利インタビュー後の阪神タイガースの歌(六甲颪)合唱時のアニメーションのカラー化のほか、試合中のリプレイや、攻守交替時にCMが放映されるようになる(後に左半分もカラー化)。広告変更。 2004年 - 室内練習場(テニス場の一部を改造)完成。女子トイレ増設、フェンスラバーの厚さをメジャーリーグ並みにするなどの改良工事実施。21世紀の大改修の具体案まとまる。また、この年の8月に甲子園が生誕80周年を迎える。 2005年 - スコアボードのカラービジョンが従来のブラウン管方式からLED方式に改造され、よりクリアな映像が楽しめるようになった。また、バックネット付近のフェンス広告が、電動で回転するものに変更され、同広告のスポンサーもカネボウからグリコグループに変わった(後述)。 2007年2月 - 室内練習場隣にクラブハウスが完成し、球場内にあったロッカー、トレーニングルーム等の選手関連施設や球団事務所がクラブハウスへ移転。 3月4日 - 甲子園駅前バス停付近に新しく「タイガースショップ アルプス」が完成。同月開催の選抜高校野球からルール改正に伴い本塁周辺にダートサークルと呼ばれるライン(本塁を中心に円が引かれており、振り逃げできる打者が1塁に走ろうとせずにこの円を超えるとアウトになる。プロ野球では当面引かれない)が設けられた[2]。10月から本格的にリニューアル工事開始。 この節には予定される事象を扱っている文章が含まれています。性急な編集をせず事実を確認の上投稿してください。 バックネット裏入口・改修工事前、蔦の伐採後の撮影。取り除かれた蔦の代わりに工期期間中は緑のパネルで全体を覆う。 1990年代初頭、いずれ来る甲子園球場の建替えについて、阪神電鉄首脳がドーム球場化を念頭において、アメリカの主要ドーム球場を視察して廻った。当初は阪神パーク跡地に、新甲子園ドーム球場を建設する計画もあったようである。その後、バブル崩壊や、西梅田再開発事業など優先事案があったこともあり、この建替え案は白紙撤回することとなる。だが、予てから球場の耐用年数が築80年程度と診断されていたことや、阪神・淡路大震災でスタンドの一部に亀裂や崩落が発生し、補修せざるを得なかったこともあり、改めて全面的な球場施設の改修について、建替えも含め具体的な構想が浮上した。そして2004年7月に構想の一部概要が報道された。内容は、当初計画されていたドーム球場ではなく天然芝の開放型球場とし、建替えではなく段階的にスタンドや銀傘、場内設備の全面改装をしていくこととして、西大阪線延伸事業が一段落する2008年のシーズンオフを目途に着工し、引き続き球場を使用しながら工事を進め、その他の大規模な工事についてはシーズンオフを中心として段階を追って行い、2010年以降の完成を目指す、というものであった。 2005年11月には基本構想として正式発表されている。改修に関する主な構想は下記の通り(詳細は後述の外部リンクを参照のこと)。 バリアフリー対策により、収容人員を4万7,000人に縮小する。しかし、収容人数を減らすことにより今以上に阪神戦のチケットの競争率が高くなり、球場へ見に行けなくなるファンが今よりも増えてしまう可能性があるため、改修するのなら増席をするべきだという意見もある。 なお、この改修により2007年〜2009年のシーズンは阪神がリーグ優勝・2位・セ・リーグクライマックスシリーズ優勝の場合でもポストシーズンゲーム(クライマックスシリーズ)と日本シリーズを甲子園球場で行わないこと(代替開催先は京セラドーム大阪または神戸市のスカイマークスタジアムを使う予定)が2005年11月の実行委員会で了承された(試合ではないが、毎年甲子園で行われた「ファン感謝デー」は2007年はインテックス大阪に会場を移し「ファン感謝の集い」として行った。平年行われていたソフトボールや軟式ボールを使ったエキシビジョンマッチなどは会場の都合で行えない)。また、ドーム化に関しては高校野球界から「青空の下でプレー出来なくなり、高校野球に相応しくない」との反対論が続出していた可能性が高いとされる。 上記基本構想を若干変更し、銀傘設置工事を集中化(2008年度は旧来の銀傘を維持し、同年10月から2009年春の工事で撤去・付け替える)させることにより工事期間中に銀傘を設置した状況が維持されること、内野観客席は2008年シーズンからリニューアルされたものが使用されること、外周や売店をのぞいては2009年3月までに完成すること(2009年10月以降の工事で行うのが外周・売店のみの工事であり、おそらくポストシーズンゲーム(クライマックスシリーズ)や日本シリーズに支障をきたすことにはならない)が2006年7月に公表された。 リニューアル工事と平行して球場内の飲食店も一新されることとなり、2008年1月29日、阪神電鉄本社は出店する飲食店の企業を公表した。その中には、あのケンタッキーフライドチキンの名前もあり、カーネル像も設置されることとなった。ケンタッキー側はカーネル像にユニフォームを着せたいと望んでおり、球団に使用許可を求めている。また従来からある「甲子園カレー」などを扱っていた飲食店も存続する。 3月11日、大林組より引渡しを受け工事完了となった。後に無観客で行われた練習試合において選手達からグラウンドとダッグアウトとの段差が高すぎる(90cm)、後列の椅子と天井の間が無さすぎるなどの指摘を受け、椅子を前にずらすなどダッグアウト内の手直しを行った。3月22日、第80回選抜高等学校野球大会で内野エリアのリニューアルオープンをむかえた。 また、バックスクリーン中央上部にプロ野球開催時に限り時計カウンターが仮設された。これは2008年から試合の攻撃間インターバルを出来るだけ2分15秒(投手交代時は2分45秒)以内に収めて試合時間短縮をしようという球界の奨励に基づいて義務付けられた時刻表示のため。 5月には第2期改修の変更概要が発表された。アルプススタンドもファウルグラウンドへ拡張する(それに伴い両翼の距離が変更される可能性もあるが詳細は不明)ことや、アルプス・外野エリアの観客用施設面積が増え、場内サービスを内野エリア並に引き上げることなどが発表された。また完成後の外観イメージ図も更新された。おおきな変更点はないが、照明塔のデザインがキャンドルスティック型からトラス構造のものに変わっている。 開設当時の甲子園のスコアボードは得点掲示のみをする仮設の板であった。これは1924年の夏の高校野球の開催に間に合わせるために球場を建設したため、常設のものが間に合わなかったためである。1925年に選手名も表示するスコアボードが正式に開設された。この当時から球場独特の明朝体の選手・チーム名表記がなされていた。 しかし、当時のスコアボードは最大で十六回までしか書き記すことが出来なかった。1926年の夏の大会・静岡中学 - 前橋中学の試合は延長十九回まで続き、常設のスコアボードにやぐらで仮設のスコアボードを急ごしらえして凌いだ。その後1933年準決勝の明石中学 - 中京商業の試合は二度と破ることができない延長25回(現在規定では延長15回までのため)まで0-0の同点という試合(試合は中京商業がサヨナラ勝ち)となり、その仮設のやぐらに0のパネルが並び続けたため見辛いということから、1934年にスコアボードを改修することになった。 2代目のスコアボードは1934年から1983年までの延べ半世紀にわたって使用された。スコアボード左側に選手名表記、真ん中に時計とボールカウンター(ただしストライクも赤色ランプ)、審判団、右にスコア(当初は上段に九回まで、延長十回以後は下段に記した)を表記するものだった。高さは現在の3代目スコアボードの半分程度(スコア表示部分と三菱電機の広告がある緑色の部分の境目あたり)であった。 当初は阪神電鉄の車両部のスタッフが遠隔操作でスコアやボールカウンターを操作していたが、ナイター設備が1956年に完成すると、それをカバーする目的で使われていたガラスが反射して見辛いことから、ガラスを外して手動に改修。1958年にはスコア表示を十二回までとし、下段はその日の試合結果(プロ野球の場合は他球場の経過)を表すものに変更された。 2代目の選手名、(高校野球の)チーム名は、全て球場係員の手による、白ペンキを用いた手書きであった。選手名は全て明朝体に近い独特の書体で書かれていた(明朝体よりもやや横幅が広いので字全体がひしゃげた感じになる)。電光掲示が少なかった当時においても、明朝体で選手名を表示する球場は少なかった。 ただし基本的には2文字分記入するのが精一杯のサイズだったために、3文字はまだしも4文字以上の選手名の表示(記入作業)は難しいもので、チーム名も基本的には2文字分(例:広島商業は「広商」)の大きさだった。書体ともども、職人芸といえる高度な技術が必要であった。さらに作業はスコアボードの裏側で行われたため、夏期は屋外以上の熱気がこもり、肉体的にも消耗度の高い大変な作業であった。 また、雨中の試合においては手書きの部分のペンキが雨で流され、時間の経過とともに読みとれなくなることが多かった。この状態はよく「(スコアボードが)涙を流す」とか「洟(はな)を垂れる」などと表現されていた。 高校野球において、プロ選手(特に阪神タイガースの選手)と同じ苗字の選手がいた場合は、プロ選手用のボードを使いまわすこともあった。また、プロ選手のボードは金属製であったが、高校野球用はベニヤ板だった、との証言もある。 これらの特徴もまた甲子園の独特の雰囲気を演出していたため、2代目のスコアボードへ強い思い入れを持つオールドファンは多い。 その後球場開設60年を機にスコアボードの近代化を実施することになり、1983年秋から冬にかけて半世紀にわたって使用された2代目スコアボードが取り壊され、1984年から2代目をモチーフにした電光掲示板(3代目)を2代目の真後ろに設置した。3代目は2代目の雰囲気を残すため白色電光による白黒ボードとされた。イニング単位のスコア表示は十回までに省略されたが、新たに合計得点(計)・ヒット(H)・エラー(E)の数字も表記出来るようにした。上半分は現在のバックネット裏にあるものと同様にチーム名や各イニング得点などの部分ごとに分割されており、その下に白黒の大型電光掲示板があった。 1993年から右半分の電光掲示板がスコア部分を含めて一体化・全面カラー化され、動画も取り込めるようになった(三菱電機の「オーロラビジョン」を採用。なお十一回からは改めて十回までのスコアを消去した上で十一回からのスコアを入力(十一回以降のイニングの漢数字は1文字分のところに2文字が縦書きで表示される)。スコアのイニングス表示は大会の規定イニングス分【春の選抜大会と夏の全国大会の高校野球は十五回、プロ野球は十二回、プロ野球の日本選手権シリーズは十五回】までとなる)。 2007年現在、プロ野球開催時にオーロラビジョンで流されるCMはトヨタ自動車、上新電機、伊藤ハム、大阪四季劇場、キリンビール、アサヒビールなど。 電光板左側の選手名・チーム名表記は、手書き時代と同じように明朝体の字体を忠実に再現している。ただ、選手名を表示する枠は一行で6文字までしか表示出来ないため、7文字を超える選手は文字を小さくして枠の中に二行に分けて表示している。 2005年 - 西武・フェルナンデス選手が「フェル(改行、右へ二文字下げて)ナンデス」と表示された。また、全国高校野球選手権では当時関西高校・ダース・ローマシュ選手が「ダース・(改行、右へ一文字下げて)ローマシュ」と表示された。(翌年の選抜高校野球以降は「ダース」となった) 2006年 - 西武から東北楽天に移籍したフェルナンデス選手と元阪神・オクスプリング選手(「オク(改行、右へ一文字下げて)スプリング」)の二名が改行されて表示された。 普段はオープン戦やオールスター程度しか使用する機会がないため気付かないことが多いが、DH制に備えて選手名は10人分確保されている(9番打者の右横が投手枠)。また、試合開始30分前の先発バッテリー発表時には9番目の枠に投手、10番目の枠に捕手の名前を表示する。 ヒット、エラー等の判定は審判の名前の上にある横三文字分の枠の中にヒットの場合はH、エラーの場合はEとエラーをしたポジションの数字が表示される(1ヒット1エラーの場合はHE7のように表示される。また1つのプレーで2人がエラーをした場合にはE53(この場合はサードとファースト)と表示される)。 高校野球のときは、観客にとってややこしいプレー・判定が出たときは(ボーク、守備妨害など)、スコア表示の下に判定を表示する。何が起こったのか理解出来ない観客が多く、また説明もなかったので「表示してほしい」と要望されたことから始めた。 3代目導入と同時に、バックネット裏の簡易スコアボードも同時に電光表示化された。ただこちらは現状特に改修されておらず、スコアは十回までしか表示出来ないため延長戦で十一回以上となった場合は、一回〜十回のスコアを全て消去した上で十一回の得点を一のところに、それ以降の回はイニング数の下一桁と同じ漢数字のところに表示している。 また、現在のバッターが誰かを表示するランプは2代目スコアボードのときからビジターの選手名とホームの選手名の間に9個の赤いランプがつけられていた。3代目スコアボードにも9個の赤いランプ(選手名の表示は10人分あるがDH制の場合ピッチャーは打席に入らないため)が踏襲されていた。1997年からは、それまで選手名とポジションの間で攻撃中のチームを表示していた赤いライン(1番〜9番まで(DH制の場合はピッチャーのところまで)が1本につながっていた)を選手名ごとに区切った短い赤いラインで表示するようになった。 2003年9月15日には、阪神のサヨナラ勝ちでマジックを1としたデーゲーム終了後、マジック対象チームであるヤクルトの試合(対横浜)がオーロラビジョンで中継された。このときビジターチームの選手名が表示される部分の1番打者〜9番打者のところに横浜・ヤクルト戦の1回〜9回のスコアが、また10番目(DH制のときに投手名が表示される)のところに合計得点(計)が表示された(このときイニングの数字と計の文字は緑色で表示された)。 甲子園球場ではフェンス、スタンド、ベンチに広告看板を掲出しているが、高校野球の全国大会期間中は日本高校野球連盟との取り決めで外野フェンス、バックネット付近、ベンチについては広告をシートで隠している。 外野フェンスに関しては、選抜高等学校野球大会時のみ、歴代優勝校の校章と校名、優勝回が書かれた白い校板を掲示していた。この校板は1932年の第7回大会から掲示されていたが、1984年の第56回大会2日目第1試合に行われた佐賀商対高島の試合において、外野でワンバウンドしてラッキーゾーンに入る本来ならばエンタイトルツーベースとすべき当たりを審判はホームランと判定してしまう事件が起きた。校板が白くて大きいためにボールが見えにくかったためである。このために、翌日からは校板は取り外されることになった。 フェンス部分は1983年夏の大会まで内外野全て脱着式だったが、1984年に内野部分にラバーが貼られる様になってからは内野部分の広告はそのまま露出し、外野部分とバックネット付近の広告を外す(隠す)ようになった。 1992年にラッキーゾーンが外され外野にラバーが貼られると大会名の入ったグリーンのシートで広告を隠している。 なお1995年選抜大会には阪神・淡路大震災の復興を祈念する文言が左中間側に、2008年の第80回大会記念には「今ありて未来も扉を開く」という大会歌今ありての歌詞の一部が右中間側にそれぞれ掲示されている。 なお、高校野球の兵庫県大会、あるいは1998年に開かれた「アジアAAA(トリプル・エー)野球選手権大会」(アジアの高校生年代の野球大会)の時は広告フェンスを隠さず、通常と同様の状態で試合を行っている。 本塁後方のフェンス広告(2ヶ所)は2004年まではカネボウが、2005年からは江崎グリコおよびグリコ乳業が広告を出している。2005年から幕巻き取り式による電動で広告パターンを複数出せるようになった(商品名などをチェンジ出来る)。なお、オールスターゲームの時のみ協賛企業(三洋電機→ガリバーインターナショナル)の広告となる。 バックスクリーンには三菱電機が広告を出している。バックスクリーン部分の広告は試合開始前、攻守交代時、本塁打時、試合終了後に点灯する。バックスクリーン下部(ペンタビジョン)の広告(1979年から2004年まではカネボウ、2005年からはグリコグループ)は電動により5種類のパターン(但しそのうち1種は試合中に使用する緑一色のパターンなので、広告として使用できるのは4種類)を掲示することができる。本塁打時には周囲の電飾が点滅するとともに「ホームランおめでとう!」のパターンが掲示される。 阪神タイガース、そして高校野球の聖地として有名な甲子園だが、過去に社会人野球の大会もあった。1973年まで行われていた日本産業対抗野球大会(サンベツ)が廃止されたことを受けて新たに作られた「社会人野球日本選手権大会」の1974年第1回から1979年第6回までの大会を当球場にて行った。それ以後は社会人野球の公式大会は行われていない。 基本的には野球以外のスポーツイベントに使うことがない当球場であるが、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールといったフットボール競技に用いられることもある。 関西と関東それぞれのアメリカンフットボール学生リーグの優勝チーム間で東西大学王者を決定する甲子園ボウルが毎年12月に開催される。内野の一部やファウルラインに天然芝を敷設し、観客席として仮設スタンドが設置される。 1994年2月19日に日本フートボール大会以来66年振りとなる、サッカーの試合が開かれた事がある。これはJリーグのプレシーズンマッチ(シーズン開幕前の公開練習試合)として開かれたガンバ大阪対ヴェルディ川崎の試合で、甲子園ボウルと同じ様に内野に天然芝を仮設して開催しこの同大会は翌々年の1996年にも開催された。 実はこの甲子園球場でスキーのジャンプ大会を開催した事がある。昭和13年と昭和14年に観客4万人を呼ぶ人気のスポーツとして外野のグラウンドを利用して開催したが長野県から運ぶ雪の輸送コストや天候不順が心配されて僅か2年でその大会寿命を終えた。他にも馬術、鷹狩り等が開催される事もあった。 西宮市では、市立の全ての小学校および中学校の生徒による体育大会を、阪神甲子園球場にて毎年秋にそれぞれ1回開催している。 小学校と中学校は別々の開催であり、それぞれ「小学校連合体育大会(略称・小連体)」、「中学校連合体育大会(略称・中連体)」と呼ばれている。中連体は全員参加だが、小連体は6年生のみの参加である(かつては5年生も参加していた)。 球場まで市内南部の学校からはいずれも徒歩で向かうが、北部(生瀬駅、西宮名塩駅周辺など)の学校からはバスで向かっている。 参加各校の生徒はスタンドで待機しつつ、観戦および応援をする。なお、観戦場所は学校毎に指定されているため、学校によって外野席になったり、屋根・テーブル付きの中央特別指定席になったりして差が出る(ただ場所は毎年順番に変わる)。 内容は、学校対抗でリレーなどのトラック競技を行ったり、市内全学校が地区毎に数ブロックに分かれて共同でマスゲーム・組体操を披露するものである。もちろん球場のフィールド内で行われるため、参加者全員が「甲子園の土を踏む」(といっても外野部分で組体操などを披露する生徒達は踏めないが)わけである。 この「甲子園の土を踏む」ことは全国の野球少年のあこがれであるが、少年期に西宮市に在住し、市立の小学校高学年または中学校に通った者であれば、その多くが「甲子園の土を踏む」ことを、男女を問わず実際に体験していることになる。 甲子園の外野部分の天然芝の中にはミミズが多数生息しており、特に裸足で行う組体操の時には、このミミズがしばしば参加者を驚かせることがある。また、連合体育大会開催前日には、甲子園球場近くの小・中学校が、甲子園球場周辺を掃除している。 2002年公開の長嶋一茂主演の映画「ミスター・ルーキー」にて、阪神の試合や胴上げのシーンのロケが行われた。主に11月頃に撮影されたため、シーズン中の真夏の試合のシーンでは、出演者、エキストラ共に薄着で寒さに震えながらのロケであった。ちなみに、この映画には桧山進次郎や矢野輝弘など阪神の現役選手やランディ・バース、さらには当時大阪ガス硬式野球部に在籍していた能見篤史もチームメイトとして出演している。 2005年冬季編成(1 - 3月)にTBS系(JNN)全国ネット放送の木曜22時ドラマ「H2〜君といた日々〜」で、高校野球の全国大会に出場するシーンの撮影に当球場が実際に使用された。但し、この時は実際の大会のようなフェンスのシート隠しはしなかった。またバックネットのフェンス広告は当時回転広告盤を設置する工事が行われていたため、通常より高めの仮設フェンスを使って隠していた 甲子園駅西口。開催日には多数の観客で混雑するが、阪神電気鉄道では大量の乗客の扱いに比較的慣れており、試合展開を先読みして臨時列車を運転するなどの対策を行う。 2005年シーズンから、阪神電鉄バスがナイトゲーム終了20分後に出発する大阪(JR難波駅前)への直通バスが運行している。さらに、2008年シーズンは、阪神電鉄バスと阪急バスの共同運行でナイトゲーム終了20分後に出発する阪急神戸線西宮北口への直通バスも運行されている。 甲子園駅の隣駅である鳴尾駅(大阪側)、久寿川駅(神戸側)までは1km弱の距離である。試合終了後、空いている列車に乗るため両駅へ歩いていく客もいる。 甲子園阪神パークが閉園した2003年までは、阪神パークの南側にあった大駐車場を球場の客向けに使用していた。また、2002年までは甲子園競輪場の駐車場を借用することで、両駐車場合わせて2000台以上の駐車スペースを確保していた。 実は駐車場は球場の南方約1kmの場所にごく少数だけ用意されているが、あくまで高校野球大会などの際の遠方からの来客と観戦ツアーバスのために用意されているものである(球場まで距離があり夏の高校野球時には炎天下歩くことになる)。 阪神西宮駅などの少々離れた駅近くの駐車場に車を停めて、電車や路線バスで来場することをCMや駅や車内の広告などで告知する形で電鉄・球団側が勧めており、球場内でも頻繁にアナウンスされている。高校野球出場高校の中には自校の応援貸切バスを球場近くのマンションといった一般住宅の駐車場を開催期間借用する形で使用したり、球場横のららぽーと甲子園の駐車場や野球開催時にのみ営業される私営駐車場を観客が利用するといった事も多々見られる。 ^ これには、「一緒に観戦していた息子の太郎がふと呟いたのを一平が採用した」という説と「登山家藤木十九二がスタンドをアルプスに形容したのを伝え聞いた一平が採用した」という説がある。 ウィリアム・テル序曲第4節「スイス独立軍の行進のテーマ」(ロッシーニ作曲、阪神タイガースの対戦相手の選手が本塁打を打った時に流れる。かつては阪神選手が本塁打を打った時にも使用されたが、現在はオリジナルの曲を使用) 全国高等学校野球選手権兵庫大会 - 数試合程度使用される(使用されない年もあり)。甲子園で試合する高校は、スコアボードをバックに記念撮影することが許されている 和歌山県営紀三井寺野球場 - 紀三井寺球場開場時、「この球場は甲子園球場並に広い」と挨拶した人がいる。 |
[ 131] 甲子園 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92
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この項目では兵庫県西宮市の地域名としての「甲子園」について記述しています。野球場については阪神甲子園球場を、高校野球の全国大会については高校野球を、その他の甲子園の用法については甲子園 (曖昧さ回避)をご覧ください。 甲子園(こうしえん)は、兵庫県西宮市南東部地域の名称である。阪神甲子園球場の所在で知られるほか、市内の他の「園」と一緒に、西宮七園として高級住宅街の一つにあげられる。 なお、「甲子園」の名前を付けた地名は西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の辺りから、国道2号・阪神電気鉄道本線をまたがって海岸に至る広範囲に分布する。甲子園球場のほか、武庫川女子大学の学舎である甲子園会館など、大正〜昭和期の歴史に残る近代建築が残存する場所でもある。 1951年に西宮市に編入されるまで武庫郡鳴尾村と呼ばれていたこの地域には、かつて、武庫川の支流として枝川(えだがわ。現在浜甲子園団地内にある枝川は戦後に作られた人工水路であり一切関係ない)・申川(さるがわ)という河川が存在した[1]。 阪神国道(現在の国道2号)整備にあわせ、武庫川の氾濫を防ぐ改良工事が兵庫県により行われることになった。このときの資金繰りとして、武庫川の改良により枝川・申川を廃川し、河川敷跡を阪神電気鉄道に410万円で売却することとした。なお、この410万円は、約310万円が武庫川改良工事に、約100万円が国道整備に充当された。 阪神電気鉄道は、購入した河川敷跡73,920平方メートルに、住宅地および行楽地を開発した。阪神国道(国道2号線)を起点に南に向かって一番町、二番町……以後、九番町までの住宅地が造成され(これが住所表記の地名にも採用されたのは西宮市に編入されて以後のことである)、七番町の西側(旧枝川・旧申川の分流点あたり)に現在の阪神甲子園球場となる大運動場[2]が作られた。また、旧枝川河口には甲子園娯楽場(のちの阪神パーク)が開園した[3]。 学校も誘致しており、甲陽学院がキャンパスを構えた(のちに移転し、跡地には東半分に甲子園東洋ビルが建設され、現在ダイエー甲子園店が核テナントとなっている。西半分は甲陽学院と同じ経営母体の白鹿グループが1992年にホテルを設置した[4])。 一帯は、その中核である大運動場が1924年に開設され、その年が干支でいう甲子の年であったことから「甲子園」と名付けられた。当時阪神間の大規模宅地開発の多くは専門のデベロッパーが関与していたが、甲子園は阪神電気鉄道が開発した。甲子園へのアクセス駅として、阪神電気鉄道は甲子園駅を設置した。 国道2号の上甲子園交差点より阪神甲子園駅方向へ伸びる幹線道路は、なだらかにカーブしている。これはそのまま旧枝川の水路跡であり、この道路の両側(旧枝川河川敷)に住宅地が造成された。また、この道路に、阪神電気鉄道により甲子園線が1926年に浜甲子園まで、1930年には中津浜まで敷設され、1975年に廃止されるまで阪神電気鉄道自らが開発した住宅地及び、行楽地への輸送機関として重責を担った。 旧申川の水路跡にも、幹線道路にこそなっていないものの道路(阪神甲子園球場西側の、兵庫県立西宮今津高校にのびている道路)が整備されている。 甲子園の誕生にあわせて、1934年に北の武庫郡瓦木村にできた鉄道省東海道本線(現在はJR西日本東海道本線(愛称: JR神戸線))の新駅は、当初「瓦木駅」と命名される予定であったが、甲子園からの乗客誘致を図って甲子園口駅を名乗ることになった。実際に(甲子園の中核である阪神甲子園球場からは遠いものの)甲子園一番町については、阪神甲子園駅よりも甲子園口駅のほうが近いため「甲子園口」を名乗るにふさわしかったのだが、この駅周辺の住所表記の地名も「甲子園口」となったのは1950年のことである。 ^ 枝川・申川とも、それ自体が武庫川の氾濫により誕生した川であった。1557年の氾濫で、武庫川から枝分かれする形の川が形成され、これが「枝川」と呼ばれるようになった。さらに1740年の氾濫での枝川の分流が川となり、この年が十二支で申年だったことから「申川」と呼ばれるようになった。なお、枝川・申川の形成からも分かるとおり、当時の武庫川は左岸よりも右岸に氾濫する傾向にあった。これについて詳細は明らかではないが、地理的要因のほか政治的要因もあったとの説もある。 ^ 当時近所にあった鳴尾球場(もとは鳴尾競馬場で、競馬場としての流れは阪神競馬場に通じている)の代替の役割もあった。 ^ 甲子園都ホテル。2002年9月7日より提携先を変更したため「ノボテル甲子園」に改称。現在、甲陽学院高等学校がテーブルマナー講習会をノボテル甲子園で行っているのは、このときの地縁ならびに経営母体のつながりによるものである。 |
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